東日本大震災とその課題

 

 

本年2011年3月11日に生じた災害は二つの異なった視点から認識されねばならない。

第一の災害は地震とそれに伴った大津波である。

第二の災害は、自然災害に伴って生じたものであるが、実際は人間が原因となって引き起こされたものである、すなわち原子力発電所の事故による災害である。

第一の地震津波災害については、大きな苦渋を持って伝えられている政治の機能不全にもかかわらず、被害地の人々が自然と運命を受け入れてさらに前に進むことに努力されている姿は、世界中からの驚嘆を集めている。

 しかしここでは第二の災害について霊性の視点から少し詳しく述べたいと思う。

事故を起こした原発の周辺区域や東京では、心配や恐れはいまもなお依然として大変大きい。原発の災害地域にあっては、日ごとまた週間ごとに、原発事故の状況がいかに深刻なものであるか、また一応のメドがつくまでさらに長い時間がかかることがより明らかとなっている。 

 このたびの日本での原発災害発生の後、人類全体に本質的な問いが投げかけられている。 すなわちわれわれ人類は今日この地球上でいかなる生を送っているのか。われわれはなにをなすべきなのか、一体なにができるのか。

 昨日の一番よいものよりも今日さらによいものを追いかければ世の中はすべてうまく行く、とこういう風に今日まで生きて来なっかったであろうか。しかし一方で私たちはこれがまったく馬鹿げたことであることをよく知っている。

ここで私は今一度現代人のための道元禅師の教えについて話をしたい。私たちと道元禅師の間には大きな時間的隔たりがあるが、しかし現代人にとっての避けられない第一の課題は、私の考えでは、道元禅師の時代のそれと同じである:自己自身において自己に目覚めること、自己自身を理解すること、自己において目覚めることにより世界を理解すること、そしてこの基盤において世界にあること。この目覚めにあっては「世界」と「自己」とは同じことである。

いわゆる無制限に自然を破壊する「現代」の生活態度こそが私たち21世紀の人間を今日の危機に至らしめた、そしてこの生活態度は私たちにいかなる究極的な解決の道をも示すことはできないことは周知のことである。それだからこそ私たちはこの「現代の」生活態度、世界観を徹底的に問いたださなければならない。

十三世紀の日本に活躍した道元禅師は妥協せず究極のあり方を語る。それは二十一世紀に生きる私たちの心に届く。道元禅師の箴言や教えの多くは私たちの心に直接に響く。なぜならそれらは人間存在の本質より語り出されたものであるからである。これらの言葉に触れて、禅師の人柄、仏法の真実と修行に対する妥協のない決断を感じ取るが、同時にまた禅師の人間に対する深い慈悲の心を感じる。   

道元禅師の教えの核心は坐禅である。道元禅師の理解に従えば、坐禅を修行することは自己の本質であり、自己の真実そのものである。それであるからこの坐禅修行は、現代の問題、人間と世界の問題を自覚する今日の私たちにとっても必須の修行である、と云える。この意味における坐禅は生きることの究極なのであり、またこの坐禅は個々人とともに社会全体が自己において自己に目覚めるということなのである。この目覚めを坐るという形において、すなわち坐禅において実践し、実現するのである。それは自己存在の完結であるとともにまたまったく新しい生き方の造形である。

 

 

私たちは日常生活にあってたくさんの問題を抱えている。坐禅にあって私たちは自己の存在の根源に帰る。この根源から私たちは問題を抱える日常に立ち向かう。たとえばまさに今の原子力発電所の問題にかかわる。

ところで道元禅師は「正法眼蔵行持」の巻の中で次のように語られている。

「行持(坐禅修行)は世間の人が好むところではないが、しかしそれはあらゆる人にとっての真の故郷なのである」。

 自分自身の中に自らの故郷を失った人、このような人はいったいこの人生行路にあっていかに正しく生きてゆけるのであろうか。もし私たちが個々人であるとともに社会全体として真のふるさとに立ち返って生きるとき、私たちに平安と調和がもたらされる。そこではじめて私たちは個々人のそして社会全体の問題を解決するという課題を引き受けることができる。

坐禅を実践することにより、私たちはこの世の悲惨の根本原因を、私たちのうちに具体的にはっきりと目覚めさせられる。すなわち自己のうちにある根本の無明と渇愛に目覚めるのである。坐禅は私たちのうちに真の自己を実現せしめるばかりではなく、それは私たちを導く智慧、般若の智慧、このいのちにあってこのいのちを照らす光である。

自己自身を探求しようとする者は直き心、直心を必要とする。心と体において直くあること、これが坐禅の修行である。

世界は狭くなった。今日の世界のグローバルな悲惨な状況は、霊的な視点からすれば、私たちすべての者の中に巣くっている生の根本渇望(トゥリシュナー)こそが最後の原因である、という事実に目覚めなければならない。

道元禅師の教えである「貧たるべし」は「仏遺教経」にある仏陀の教え「少欲知足」(望むところ少なくして足るを知る)と同じ意味である。

仏陀や道元禅師が要請されるところを道徳的な要求と見るのは早まった誤解である。

道元禅師における「貧なるべし」、仏陀における「小欲知足」や道元禅師における「貧なるべし」はほかでもない、現代の社会的また経済的な問題は私たちのなかにある盲目の渇愛にこそ根差しているということにはっきりと目覚めなければならないという要請である。貧なるべしという要請を真剣に受け入れるとき自ずからひとつの帰結に導かれる。すなわちラディカルな徹底した人生の見方、人間についての本質的な理解、深いところでの意識の変革、これらはまさに、つねによりいっそうよいものを持ちたいという現代の「消費の原則」に対して絶対的な対極、内面の革命である。

現代社会のこの状況にあって私たちは自己自身において深く目覚めなければならない。この目覚めとは、今日のわたしたちの生存の状況を認識し、またわれわれの世界に対してのそして同胞の人間に対しての自らの責任を認識することにほかならない。私たち個々人におけるこのような内面の革命なくしてはいかなるチャンスもない。

この目覚めとこの認識こそはすでに私たち個々人とともに私たち全体における「命をはぐくむ行為」であり、それはグローバルな問題に立ち向かう。私たちは何もできないのではない。私たちはサンサーラ(輪廻転生)の悲惨の流れに盲目のままに流されてはならない。

これこそが決して解決されることのない日本における原発事故の後の、霊性の次元における決断である。またこれこそが命をはぐくむ安らぎの道である。この道を実践することは、この地球上にただいま平和を実現していることに外ならない。

 

2011年9月『第25回世界宗教者平和の祈りの集い』講演の邦訳。
大本山永平寺機関紙「傘松」平成23年10月号掲載。