アイゼンブッフ禅センター

3ヶ月安居のレポート2

「私にとっての3ヶ月安居」

スザンネ正然さんインタビュー

 

 

 

1.今回の安居で身体的・精神的に経験したことをお話いただけますか?

 身体的には考えていたよりもずっと大丈夫でした。一日に何度も結跏趺坐ができました。もっともひざを痛めている足を上にする時は30分としました。でもそれで新しい「坐禅の質」も体験できました。

 力を集め集中し、保持し、さらにその上を行く。この繰り返し。常に骨の折れる過程ですが、でもこれで一生懸命力を尽くす事が自分にとってどんなに大切なことか、またそれは私がここにあるということを支えてくれるものだと実感しました。そしてそれは日常身体を使う仕事や厄介な仕事の場合大変大事だと思います。

 今回は感情的な心の状態をそれなりに保つのが難しかったです。身動きが取れぬ感覚、閉塞感、内部からの圧力、緊張感などがたびたび現れて気が滅入り気分が悪くなりました。これは私が煮詰まっていて突破口や飛躍を求めているからだと思っています。また全く口にしてはいませんが、現に心にあり、心底かかわり、挑戦を受けているようなただいま進行中の人間関係の問題のせいでもあるでしょう。私の中に巣くう多くの疑問、不安、疑念が繰り返し顔を出し混乱した頭でこう思う。この気分はこの道が「誤った道」だからくるのではないのか。あるいは不安が私を孤立させ盲目にしてしまうからではないのかと。でもこの安居のあと何が正しくて道理に適い自分が何を欲し必要としているのか等すべてはっきりするだろうと心に感じています。

 ひっきりなしに徹底的に自己と向き合うことで次々新たな洞察は得られ、それに取り組むけれど真の解明や解決にはまだつながりませんでした。今は安居の日常が始まってそのことに取り組み「語り合い」を行い、「語り合い」を通じてより一層はっきりさせていきます。

 

 

 私には火の要素が少なくしっかり存在するのではなく決断せず流されてしまう傾向があるので、自分の殻を破り活発で創造的に行動を起こすのは難しいのだけれど、強くそうありたい、またそうなれると思っています。日常においても特別な語り合いの修行の場においてもどんな出会いにおいても、言葉にして自分を表現すること、そしてそこから、特に自分自身から逃げないことが大切だと感じています。

 安居期間中の徹底した坐禅と内からの圧力があったからこそ、J.S.バッハ「ロ短調ミサ曲」の冒頭「キリエ・エレイソン‐主よ憐れみたまえ」を聴き特別ないまだかつてない音楽経験ができました。生まれてはじめて音楽が体の中を突き抜けていき、音楽と魂がひとつに結びつき祈りとなりました。他のどの曲でも駄目、あの歌でなければならなかった。午後の間ずっと心の底から泣き、口は歌を歌いたがるし体が私の意志とかかわりなく内部から祈りの形となり、ただ受身に聞くのではなく自分の声で歌い、自分自身が音楽の表現になりたくてたまらなかった。この体験がこれから先の私にどれだけ意味があるものなのか、これを突破口としてこれからもっと活発になれるのかはまだわかりません。

 

2.あなたにとり必要なものは何ですか?

 勇気です。

 集中して坐ることは私を本質的な所、困難なまだ整理し切れていない所に導くとともに力と心の平静を与えてくれます。この状態を維持し続けることは難しい一方、まさにこれが現在の私の機動力であり力です。日常において自己の殻を破りアクティブに物事にかかわり自己を投入し、そこに厳とあること。でもその後でコンピューターの前に長時間座ったりすると、それとつり合わせるためその後きつい庭仕事などをしてバランスをとらないとこの力はすぐに消えてしまいます。

 「ダルマ・レーデ」(他を批判せず自らの心を率直に語る)などに取り組むことは私には容易なことではないけど自己の殻を破る手助けをしてくれます。

 現在の私のままあり続け、ありのままを見せ、伝えることが最も難しく、そのための大きな不安が私を不自由にしています。

 真っ直ぐに心を正して誠実でオープンになり、本当に自分自身や他の人や人生と触れ合うことができるようになる事が私のもっとも大きな望みです。

 普門寺での日常生活こそが私にとり最も大事なものです。そのことに少しづつ少しづつ目覚めてきており、日々の修行にこそ多くの意義を感じています。これこそがもっとも大事な霊的な修行です。

 

 

3.なぜ普門寺にいるのですか?

  私はどこか漠然と霊的修行の場を求めたことはなく、普門寺でなければいけなかったのです。老師を先生とした普門寺とその精神です。他の所がどうなのか知りたいとも思いますが、それでも他の霊的な場で修行するくらいなら自分たった一人で道を探していきたいと思います。

 初めて会った時から私が心の底からそうありたいと願っていることを、中川老師が体現し生きておられることにとても強く感銘を受けました。つまり、決然とした態度で霊的に生きる道を選ばれ、愛情と共感と英知が一つとなって、その絶対的な誠実さと正直さ、生き生きした態度、強い存在感をお持ちなのです。老師が師として精神的に最も高い段階におられるからというより、人間としてのあらゆる困難さ・難点を持って私たちの前におられるということのほうが私にとってはもっと重要でした。

 先生としてのルートさんの存在も私には大変大事です。彼女が物事の本質について教えてくれるだけでなく、女性的な気配りで導き傍にいて支えてくれるのも私にとり大きいです。

 時々普門寺に居づらいと感じ、この道は本当に先に進めるものかを問いかける時期が来ます。そのたびにいつも私や普門寺の何か新しい可能性が開かれこの道は適切なものだとわかります。今も内面的にきついのですが、今回は私に原因があるのはわかっています。もっと心を開き、活発になり自己の殻を破って私と普門寺のために私の展望と創造性を生み出していけるようにならねば。この意味において、普門寺での自分の存在に全責任をとる心構えがあります。

 

 

 私はまだまだ視野が狭く目覚めていないので、人間的にも精神的にももっと成長し、私の人生の課題を果たしていきたいです。10年普門寺に住んで、あらゆる状況や出会いや経験など人生の全てがこの霊的な道につながっていることが益々はっきりわかってきました。

 この道に沿って「しっかりと生き抜く」ことが大事です。これまでの人生の大半で私は本当の意味でまだこの地上で肉体を持って存在していないので、もっと自己を開き生きることにかかわり活発にならねばならないのです。

 こと細かく決められた日常や常に緊密な関係で人といる状態から離れ、時々自分だけの空間を持つことが私には必要です。自由を感じ自己を開放し人目を気にせず色々試せる空間。これは普門寺にはほとんどありません。
でも今の私にはいろんな人と共にいて出会いを学ぶことのほうがもっと重要です。役割としてではなく、仮面をかぶらずにいることは本質的な成長のプロセスです。

 

4. これからも普門寺に住み込まれ活動を続けられますか?

 普門寺が必要としていることで私ができることをより責任を持ち積極的に全力で行うことが、ここにこれからも住み続けることの意義です。そして私が成長し能力を発揮できるようになるために必要なことをする。
禁足安居が終わった今、体の中にたくさんのエネルギーを感じ、自分がここに厳とありやる気に満ちています。
今後普門寺を出ることになったとしても精神的な道や私の課題の実践は至るところにありますし、それがまさに私の課題となるわけですから特に不安はありません。

私はいつも自分に問います。このやり方でいいのだろうか?きちんと心を正して誠実に生きているだろうか?

普門寺が私に与えてくれた全てのものに感謝しています。

普門寺にあって、私が与えることのできた全てのものに感謝しています。

 

2012年2月29日

 

 

 

お忙しいところありがとうございました。

今後の益々のご活躍をお祈りいたします。