インディアンにめぐり合えるって人生でもとても幸運なことだと思う。初めて普門寺に来たそのすぐあとで私はインディアンに会った。
そうだとしか思えない。
2014年の夏、何もかもうまくいかずもう死んでしまおうと思っていた。外に幸運を見出そうとしてボロボロになり病気にもなったが、でも何も見つけられなかった。
インディアンのことに戻ろう。彼は伝統的バイエルン風の名では「マンフレート」といい「フレディ卿」という名の赤と白の縞の猫を飼っている。
初めて普門寺に来た時そこでチッタという猫に出会った。牙が一本欠けた口で「にゃお」と鳴き、私が宿泊する部屋に向かう時同行してくれた。そこでの最初の数日間、私が大変な時に静かに言葉こそ発しないが賢く直観的な態度で側にいてくれ、この猫が本物の禅のマイスターであることをわからせてくれた。
猫とインディアンは共通点がある。どちらも例外なくとても純粋だ。ぶれない。インディアンは約束を守る。背筋が伸びて芯が通っていて、弓を張れば神の閃光が瞬時に矢を標的に導く。猫もインディアンも今ここに徹底した存在だ、と確信した。でもいったい全体どうして普門寺と関わっているのだろう?
うーん、そうだなあ。
普門寺の大きな門を最初にくぐった時のことを今でも覚えている。
第六感がアタマにこう云った。ここはすべてが素晴らしいぞと。本物の場所だ。宗教の傲慢さや大きなショーのための仕掛けもない、ゆがんだところや本質から気をそらすようなゴテゴテしたものがない。
あるのは静けさと透き通った明るさ。
少しずつではあるが自分自身を見出し、また真の故郷は自分の心の中にあるのだということを思い出した。
ここアイゼンブッフは一匹の猫と私のインディアンが生きていけるところだ。
それなのに、いや多分だからこそ長い旅に出ることを決めた。
世界の他の場所では仏教はどうなっているのだろう?
それを知りたくて2016年にタイとネパールに出かけ僧院を訪ね、瞑想とウォーキングメディテーションをした。私の小部屋には大蜘蛛や色とりどりの大小のヤモリがやって来て結構忙しかった。
そこでは仏教の簡素な面やゴテゴテ飾りつけたものや、熱烈信仰や愛らしい面、無思慮な面などを見て来た。人間としてその仏教を生活しまた教えている。
4か月の旅から戻ると私のソウルメイトのクリスチアーネと一緒にインディアンが私を空港に迎えてくれた。
「で?ここに残るのかい?それともここバイエルンよりよそに純粋で魅力的な霊性を見つけられたかい?」インディアンの意味深い質問だ。
ううん、見つけられなかった。
小さいけどとても大きな場所を占める故郷を私は旅の間にもう見つけていた。
誠実な美しさと心を癒してくれる澄明さと口ごもってむにゃむにゃと鳴くチッタという猫のいる普門寺だ。
「自分自身の中に深く根を下ろし自分自身に辿りつく。」と老師が一度言われたように。
この素晴らしい一枚の絵が浮かんでくるような言葉は本物のインディアンが言ってもおかしくない。
その言葉に感謝。
心をこめて
サスキア・アンドリーセン